2016年春からNHKで放送される
朝ドラ「とと姉ちゃん」ですが、
ヒロインのモデルとなっている人物について
あなたはご存知ですか?


大橋鎭子(おおはし しずこ)という女性で、
激動の昭和時代に生き、戦後日本の多くの
女性たちの心をとらえた生活総合月刊誌
「暮らしの手帖」を創刊した方です。


この大橋鎭子という女性について、
「とと姉ちゃん」の発表を機に
初めて知ったという方も
多いのではないでしょうか。


そこでこの記事では、
大橋鎭子の妹や若い頃の詳細、
彼女が立ち上げた「衣装研究所」について
ご紹介したいと思います。

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大橋鎭子の2人の妹はどんな人!?


1920年に東京で生まれた大橋鎭子には
2人の妹がいます。


次女の横山晴子さんと
三女の大橋芳子さんです。


早くに父親を亡くした大橋鎭子は、
父親代わりとなって、2人の妹と
母親を支えたそうです。


「とと姉ちゃん」と言うタイトルは、
大橋鎭子が「とと=父」代わりになって
2人の妹の面倒を見たという
意味合いが込められている
ようです。



終戦後、様々な経験を積んだ大橋鎭子は
この2人の妹たちと、女性のための雑誌を
出版する会社を立ち上げる事を決意します。


そして1946年に、大橋鎭子は
妹や花森安治と「衣装研究所」を設立し、
下の妹の大橋芳子の協力を得る形で、
服飾の提案雑誌「スタイルブック」を創刊しました。


また、大橋芳子は
エッセイストとしても活躍しており、
朝ドラでも、この辺りが描かれると
一部では噂になっているようです。



なお、大橋鎭子は2013年3月に死去し、
3女の大橋芳子も、翌年の10月に
同じく亡くなられています。


ただ、次女の横山晴子さんはご存命で、
大橋鎭子のお葬式においては
喪主を務められているようです。


朝ドラが始まる頃には、
横山晴子さんを対象にした
インタビュー記事も組まれそうですね。

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大橋鎭子の若い頃について


大橋鎭子の妹たちについて
紹介しましたが、若い頃は一体
どのような人生を送ったのでしょうか。


東京で生まれた大橋鎭子ですが、
1歳のときに父親の転勤で
北海道に移り住んでいます。


しかし極寒の地で体調を崩したのか、
父親が肺結核を患ってしまい東京へ帰還。


その後、大橋鎭子が小学校5年生の時に
父親は亡くなってしまいます。



そんな中、大橋鎭子は妹たちと教養を受け、
1937年に東京都第六高等女学校
(現・都立三田高等学校)を卒業し、
日本興業銀行に入行しています。


母親ひとりで子供たちを養い、
学校に行かせるということは
現在でも大変な事ではありますが、
昭和のこの時期、本当に苦労したと思います。



大橋鎭子はその後、
日本興業銀行の調査課に3年勤務した後、
日本女子大学に入学しますが、
1年で父親と同じ肺結核を患ってしまい
学業を断念しています。


静養の後、日本読書新聞に入社し
編集部に所属しますが、
ここで花森安治と出会い、
後に「暮らしの手帖」を創刊する
きっかけを掴むことになります。


大橋鎭子が設立した「衣装研究所」とは?


では、1946年に
花森安治と大橋鎭子が設立した
衣装研究所」とは何なのでしょうか。


この「衣装研究所」ですが、
現在の「暮らしの手帖社」のことです。
(以前の名称という事になりますね)



戦後の混乱の当時、婦人目線で
書き起こされた雑誌はありませんでした。


そんな状況の中、花森安治と大橋鎭子は、
女性のための雑誌を作ろうと決意。


その後設立したのが衣装研究所であり、
大橋鎭子は創業者として社長に就任し、
妹の大橋芳子らと共に、服飾の提案雑誌
「スタイルブック」を創刊しました。



その後、1948年には、
スタイルブックが前身となる
「美しい暮らしの手帳」として
第一号を創刊し、1951年に社名を
「暮らしの手帖社」と改名しています。


また、「美しい暮らしの手帳」は
1953年12月の22号から、名称が
「暮らしの手帖」に変更され、
日本の家庭向け総合性格雑誌として
大きな評判となりました。



大橋鎭子は1956年には、
婦人家庭雑誌に新しき形式を生み出した努力
について第4回菊池寛賞を受賞。


1994年には、1969年から
長年にわたって連載したエッセイ
「すてきなあなたに」により
第10回東京都文化賞を受賞しています。



なお、暮しの手帖は1968年からは
季刊から隔月刊に変更されていますが、
一貫して広告は自社書籍のみで、
企業からの広告は受けない点が特徴
です。



また、厳格な商品テストの公表は、
製造メーカーに対しても大きな影響力を
与えていた事でも知られています。



「暮らしの手帖」は1978年に
編集長である花森安治が死去すると、
大橋鎭子自身が編集長も兼任していましたが、
2004年には妹の息子の妻である
横山泰子が社長に就任しています。


また、2007年には
松浦弥太郎が編集長に迎えられ
時代に合った雑誌となり、その過程で
商品テストの記事などは中止され、
雑誌のスタイルも変更されました。


とは言え、現在でも人気がある
雑誌である事には変わりはありません。

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この記事のまとめ


大橋鎭子には二人の妹がいて、
上の妹の横山晴子さんはまだご存命、
下の妹の大橋芳子さんはエッセイストとして
雑誌の創刊にも関わっています。


そんな大橋鎭子ですが、
小学5年生の時に父親を亡くしたり、
自身も肺結核を患うなど
若い頃はかなり苦労されたようです。


その後、大橋鎭子は花森安治と共に
「衣装研究所」を設立していますが、
これが後の「暮しの手帖社」へ
繋がっていくのです。


朝ドラ「とと姉ちゃん」では、
大橋鎭子の軌跡をどのように
描いていくのか、今から楽しみですね。